<コミュニケーションとしての言語/言語としてのコミュニケーション 2> 音楽の習得の過程において、 「輪唱」 というものがありましょう?
「森のくまさん」 ある日 →ある日 森の中 →森の中 クマさんに→クマさんに であった →であった
と、 言語の習得も「輪唱」のような過程があるのではなかろうか、 というのが添削担当者(谷村)の考えなのであります。
「母と子の言語の習得過程」 マンマ →マンマ じいじ →じいじ にゃんにゃん→にゃんにゃん ブウブ →ブウブ
と、 「名づける」という過程で、お子さんは一つ一つ、「世界」を獲得していく。 「名づける」対象が広がるにつれて、「世界」も広がっていく。 誰もが通って来た「道」です。
外国語の習得って、その原初の言語習得過程をなぞっているのではないでしょうか。
「日本語→英語」 わたし→I 愛する→love あなた→you
みたいな、異なる言語の間で「輪唱」がある。 もし、 万が一、日本人自身の言語能力が衰えているとしたら、 どういうことになるのか、「輪唱」してみますよ。
「森のくまさん」=「日本語→英語」 ある日 →ある日 ( ) →森の中 クマさんに→クマさんに ( ) →であった
と、 当然のことながら、先行するフレーズがないと歌いようがないから、
「森のくまさん」=「日本語→英語」 ある日 →ある日 ( ) →( ) クマさんに→クマさんに ( ) →( )
みたいなことになっていき、「歌(言語体系)」として成り立たなくなってしまう。 それどころか、 「作文、キライ!」 「小論文なんか、受験にでないからど~でもいい」 「宿題の小論文なんか、コピペで楽勝~♪」
と。 ズボシッ! と、「ガビ~ン」と思った受験生のみなさんは、まだまだのびる余地あり、 これまで添削担当者(谷村)が述べてきた文脈がしっかり見えているから。 そして、自分が見えているから。自己検証の能力あり、ということなのです。
さらに、掘り下げてみましょう。 「書くのキライ!」 つまり、 「論理(すじ道)付けて、文章を構成できない」 で、 大学受験の試験科目に「あるから」といって、 どうして「現代文(論理的に構成された意見文)」だけは、できるようになるのだろう? さらに、 どうして「英語(論理的に構成された意見文)」だけは、できるようになるのだろう? ということなんだな。 ホームページで添削担当者(谷村)のめんこい教え子の翻訳家が書いてくれているとおり。
もし、 「日本語を書けない」受験生が増加しているとしたなら、
「森のくまさん」=「日本語→英語」 (日本語を体系的に習得できていない)→(外国語を体系的に習得しようがない) ( )→( ) ( )→( ) ( )→( )
みたいな「輪唱の不在」、 日本語だろうが、英語だろうが、フランス語だろうが、「言語体系」として存在しようがない。 他人ごとだと思ってます? よそのハナシだと思ってます?
某大手予備校の物理の講師、 物理講師「生徒がさ~、質問できないんだよ。国語科でなんとかしてくれよ!」 添削担当者(谷村)「へ?」 物理講師「物理がわかんないとか、それ以前に日本語がわからないんだよ!」 添削担当者(谷村)「は~?」 物理講師「講師室に黙って入ってきて、テキスト指さして『コレ!』って。『何よ?』って聞き返すと『コレ!コレ!』だって。何が、どうわからないのか、自分で説明できないんだよ」 数学講師「あるある!それって、もう、物理とか数学以前に、国語のモンダイだぜ。なんとかしてくれよ~」 だって…。
添削担当者(谷村)、某大手出版社さんの「大学新入生のためのレポート指導」というの、ここ何年かやっております。 あの… ウソじゃないですよ。大げさにフカシ入れてませんよ。 「日本語を書けないのに、大学教育を受けようとしている人たちがいる!」 しかも、決して少数ではない。 添削をしようにも、指導をしようにも、「何が書かれているのか、わからない」。
つまり、 「国語をおろそかにして、外国語の習得」って可能なのか? 「小論文書けないけど、現代文は得意」ってありうるのか? 前回のべた帰国子女の生徒さんのように、 「英語でしっかりやってきたから、国語もできる!」 のパターンもあり。 ただし、英語、仏語、日本語、いずれにしろ、 「ある言語体系の習得→他の言語体系の習得」 という「森のくまさん」を輪唱していることは同じ。
大学受験において、「現代文/小論文」は別々にやってはイカン、同時並行演習するべし! と、 「2-way method 現代文/小論文」の講座を作ったのは、上記の根本的な理由によるものです。 で、 むむん…、と。 大学受験、尻にファイヤー! 「現代文なんとかしてください!」 「小論文なんとかしてください!」 あの、 添削担当者(谷村)はドラえもんでは、ありません。 じゃあ、お子さんの言語習得過程の初期にもどって…、 って、ムリ! でも、先々、大学受験まで見わたして、小学生のお子さんを指導することはできるだろう、 (かわいそうだけど、大学受験で泣きついてきた生徒さんには間に合いません)。 で、 何で、添削担当者(谷村)が小学生のお子さんの指導をしないで、 「母(父)と子の読み書き教室」 お母(父)さまに添削指導していただこうと考えたのか? 上述の、「母と子の言語の習得過程」を見ればわかるとおり、 「作文」とはいっても、言語の習得過程の初期、 「森のくまさん」の延長で習得するべき、と考えたから、 「コミュニケーション(やりとり)」の中でコトバは習得される、と考えたから、 なのであります。
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